honagsuki’s blog

シュタイナー傾倒中

事実

みんな宗教は嫌いだ、その気持ちは本当によく分かるよ。関わり合いになりたくないよね。宗教者には、話しをしても通じないし自分達だけは正しいと思い込んでるし、何より入れ入れとうるさいしね。

 

宗教なんて、時代おくれどころか時代錯誤の狂気にしか見えないもの。カッコ悪いし。

 

そもそも、この世には神も仏もないし、お金が全てだとみんな知ってる。そして、死んだら何もかも終わりだし。

 

どんなに大切なことも、感動も、なにを愛しても、どんなに愛されても死んだら全て無。

 

だから、人間もこの社会も文明も芸術も、なんの意味もない。

 

なのにあの時、キリスト・イエスはなぜか、この無意味な人間などのために。全てを捧げた、イエスを裏切り十字架にかけた人間のために全てを捧げた。

 

その事実だけは忘れないでいたい。

 

難解なブログ「失われた救済の力」

記憶に障害があると、自分が何を忘れたのかを忘れてしまう。思い出せないのではなく、それは失われてしまう。

 

その意味で、私たちは信仰を忘れたり乗り越えたりしたのではなく、まさに失ってしまった。

 

だから、信仰(宗教でなく)を再び体験して信仰への認識を足元の一歩から構築しなければならない。

 

これは、現代人にとってひとつの困難な道であるけれど。それだけに大きな意味のある道となる。

 

科学と信仰と芸術という、この良く知られた三位一体が完成する時。救済の「意味」と「働き」が明らかになるのだから。

 

社会革命も人類の救済も、そこからしか始めることはできないだろう。

 

死と病

キリスト・イエスゴルゴタの丘でのあの死から、その身をもって復活を遂げたということは。

 

私たち人間一人ひとりが、キリスト教徒であるかないかなどに関わらず「死と病」を克服することができる可能性を得たことを示したのですね。

 

ついに、私たち人間はここまで来れたのですね。

なのに、そのことを知らない人がいるなんて。

進化

この宇宙の全ては、ひとりの人間にちり一つ残さず込められている。ひとりの人の自由意志は全存在と分かち難く結びつき、それは自然法則を創造するあの「力」と明らかに同質のものである。

 

原初から、時代も民族も文明もこえてよく知られていたこの事実を私たちは忘れた。

 

これを明るい意識と感動をもって、再び見いだせ。

 

 

難解なブログ「神殺しのニーチェ」

ニーチェが「神を殺した」人であることはあまりにも有名。しかし、彼が殺したのは私たちがイメージする「神」ではなく、あの十字架の死から身をもって復活を遂げた「神」なのだということ。

 

だから、ニーチェのしたことはとても人間業とは思えないことなのですね。

 

そのことに、やっと気がつきました。

責任

例えばジャニーズでの子供への虐待に限らず、学校や社会でのイジメや、家庭内虐待やDVも。

 

私たちはどう対応していいのかが全く分からない。

 

せいぜい第三者委員会なるものを設けて、誰かに責任を押し付けてバッシングやネットリンチでもして自分は「第三者」の側にたって、私たちは安心した気分に浸っているだけか。

 

この自分たちの途方もない無力さを認める勇気がないなら、私たちの未来に光はない。

 

この責任は誰にある?

「私たちではなく、この私にある」といえるかどうか。

 

 

没落

私たちの現実の政治的姿勢は、理念や理想はもとよりすでにあのイデオロギーさえも失っている。そして、金銭的権力を政治の本質だと思っている。

 

それは、たしかに間違った思想やイデオロギーに取り憑かれるよりマシなのかも知れないけど。

 

権力を政治の本質とみなすのは洗練されたファシズム的思考だと思う。このファシズム化社会の特徴は右傾化も左傾化もしてなどいなくて、ひたすら金銭的権力の坩堝(ルツボ)に飲み込まれつつあるだけのように思う。

 

死滅したはずのマルクス主義唯物論が、ネオリベ唯金論と成り果てて、地獄から復活を遂げたかのようだ。

 

教育も法制度も大学も、全て政治と同じくこの坩堝に向かっている。

 

使い切れない天文学的貨幣資産ともに、私たちのこの文明は没落してゆくのですか。