honagsuki’s blog

オカルティスト 人智学高橋巖派

フランクルの二冊

フランクル博士の「夜と霧」を読み返しました。10代後半の私がこの作品に深く影響を受け、そしてその後の生き方をこの作品が示唆していたことに改めて驚いています。

 

若いころ刃が立たないと感じていた「死と愛」。今の自分になら理解できるなどど言うつもりはないけれど、当時全く理解できなかったことの理由は今よく分かります。「死と愛」もまた、その文体とは裏腹に、フランクルの実な「信仰体験」告白の書だったのですね。実存主義という立場を(もちろん悪い意味では決してなく)逸脱しているのはまさに彼の信仰体験ゆえなのでしょう。

 

ユングの個体化とパウロの言葉

高橋巖はエッセイ「ユングの個体主義」において、個体化プロセス(ユングによる修行法のこと)の到達点「ゼルプスト(霊我、大我)」は『「デミアン」におけるアブラクサスヨハネ福音書におけるパラクレート(真理の霊)の心理学的概念であることは明らかである。だから「個体化」のプロセスをパウロの言葉、「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きているのだ」で表現することもできる、とユングは書いている。(高橋巖 神秘学序説189ページ)』と述べている。

 

教祖たちの常套句「私が(あるいは私は)キリストである」「私が仏である」「私は救世主の再来である」という言葉と、パウロの言葉は一見似ているようだけれど、そのニュアンスには決定的に異なる。

 

このニュアンスの違いは「私」という概念の違いからも説明できそうですが、パウロの言葉を敢えて言い換えるなら「私は自らの自由意志によって、自分の魂にキリストを受胎する」となるでしようか。

 

この大切なことに、今朝気が付きました。

 

いつも、ありがとう。